国境も世代も越える、喜びのカカオ

企画展「はじまりの白」(2021.8.1~10.24) に出店してくださる皆様に、

なぜその分野で生きることを選んだのかを聞くシリーズ。

最終回は、カカオの生産からチョコレートの製造販売まで、南米コロンビアで一貫して手がける「CACAO HUNTERS」の創業者であり、カカオハンターⓇの小方真弓さん。

豆からチョコレートを作るのが「Bean to Bar」なら、CACAO HUNTERS のチョコレートはいわば「Tree to bar」。チョコレート会社の開発員だった小方さんが、地球の裏側に拠点を移してまで追い求めた“夢”、そしてその先に見つけた喜びとは。

カカオが自生する森をかき分け進む小方さん

カカオ・ブランコとの出会い。そして、コロンビアへ

大学で栄養学(管理栄養士)を学んだ後、卒業後は製菓原料チョコレートメーカーに入社して開発部門に勤めていた小方さん。今でこそチョコレートの原料がカカオであり、カカオ生産国や栽培現場にまで目を向けられることも増えてきたが、当時はまだまだその分野に詳しい人が数少ない時代だった。

「このチョコレートの原料は誰がどうやって育て、収穫して私たちの手元にきたのか」

カカオの世界を知らずにチョコレートを開発することに疑問を感じた小方さんは、会社をやめ、カカオの生産国や、ヨーロッパの消費国など、単身で世界へ飛び出すことを決意したという。カカオがチョコレートになるまでの長い道のりを、自らの目で見て、肌で感じること。それが、カカオハンターⓇとしての「旅」の始まりだった。

その後、チョコレートの技術コンサルタントとして活躍しながら、カカオの生産地だけでも15カ国を訪れた小方さんが、やがて拠点として選んだのは南米コロンビア。

その理由の一つとなるのが、「カカオ・ブランコ」と呼ばれる種が白いカカオとの出会いだ。(通常のカカオの種子の部分は紫色をしていることが多い)

「カカオ・ブランコはチョコレートやカカオに携わる人たちの一つの夢なんです。数が少ないので、出会った瞬間の喜びというのは別格です。カカオは花粉が混じりやすい植物なので、白いカカオでも、隣に種子の色が紫色のカカオを植えると、次第に混ざっていきます。なので、本当に真っ白なカカオはすごく少ないんです。数が少なく、さらにピュア。誰とも混じっていないというか。そんな感覚がありますね。」

カカオの実を割り、さらに種を割った写真

一度は見つけられず日本に帰国したというが、その後様々な地図から研究を重ね目星をつけて行くと、見事発見。トレジャーハンターさながらの冒険物語だ。

その後、コロンビアのカカオのポテンシャルに魅了された小方さんは、さらに深くコロンビアと関わっていくこととなる。

カカオと言えばガーナなどアフリカ大陸のイメージがあるかもしれないが、その起源は南アメリカ大陸のアマゾン川流域西部であるとされる。エクアドルではカカオの成分が付着した5300年前の土器が発見されているほど、長い歴史を持っているのである。

そして、コロンビアはエクアドルの北側に接している国。長い年月のなかで自然交配されたカカオや、海や山と言った様々な土壌と気候のもとで育まれるカカオなど、その多様性は他に類を見ないのだそうだ。

色とりどりのカカオ

それに加え、コロンビアで繋がったチームメイトと、その土地に根付いていた文化が、小方さんをカカオの世界の深淵へと導いていった。

「コロンビアでできないことは、他でやってもできないだろうという考えがありました。コロンビアでは生産者がチョコレートを飲む文化があるのですが、その文化が今でも残っているのは、主にメキシコ、グアテマラ、コロンビア*1。だから生産者自身がカカオを育てることにすごく誇りを持っている人もいらっしゃる。自分たちが作ったチョコレートを家で飲む文化もあったというスタートラインが少し他の国とは違うということもありました。」

*1 一部のエクアドルやペルーなどでも飲用されている。

コロンビアの人々との縁と、カカオの多様性、そして、食文化。

小方さんがコロンビアに拠点を移すには十分すぎる条件が整っていたのである。

良いカカオは、良い循環から

ご存知の方も多いかもしれないが、カカオがチョコレートになるまでの過程をあらためて整理してみよう。

【カカオの栽培→実の収穫→実の中を取り出す→果肉と種の発酵→乾燥→熟成】(輸出)【ロースト→可食部(カカオニブ)を分離→カカオニブを摩砕してペースト(カカオマス)状に→砂糖などの副原料を加えて更に微細化→精錬→成形】

書き出してみると、非常に多くの製造工程を経てチョコレートが作られていることがよく分かる。そして、ここに仲買業者や輸出/輸入業者、チョコレートメーカーなどが関わることで、ようやくチョコレートという形で消費者に届くのである。

CACAO HUNTERSのチョコレート製造の特徴の一つとして、この複雑な流通経路を一本化し、生産から製造・販売までを一貫して手がけるダイレクトトレードというものがある。

一般に、カカオは投資の対象であり、先物取引によって価格が決まる。それはつまり、生産者はその価格設定に関与できないということだ。

一方で、CACAO HUNTERSのダイレクトトレードでは年間の取引価格そのものを生産者との間で決めているという。さらに、品質の良いカカオへの技術指導を行いながら品質向上を促し、その結果に対して買取り金額を上乗せするという独自の制度を導入。これにより、カカオ生産者への迅速な支払いと農業開発の促進を実現している。消費者にとってはトレーサビリティが担保されることにも繋がっており、CACAO HUNTERSで取り扱うチョコレートは、原料のカカオを生産した農家、さらには収穫した個人名まで追うことができるというから驚きだ。

「ダイレクトトレードのいいところは、状況に応じて、生産者と一緒にマーケットを作っていくことができて、かつ、消費市場にもマーケットを作れること。生産者にも消費者にもメリットがあり、楽しんでいただけることが、持続可能な生産に繋がります。」

生産者の持続的なカカオ生産、という観点からはフェアトレードとよく似ているように感じるが、フェアトレードは国際市場での価格変動に対して最低価格を保証することが最たる目的となっている。個々のカカオの「品質」に対して、それぞれ適正な価格で取引をする、というところにはまだ行きついていないのである。

カカオ生産地の一つ、シエラネバダに暮らす、
コロンビアの先住民の末裔アルアコ族

チョコレートの世界では、生産国と消費国との間に“距離”がある。自分たちが作るカカオが、どのようなチョコレートになって、どのように消費者のもとへ届くか、生産者自身は知らないことが多い。小方さんは、カカオ生産者が、生産することに対する誇りを持てるような仕組みにこだわる。

「生産者としてのものづくりの皆さんがチョコレート市場に近くなることが大事です。品質の高いカカオに対して対価をお支払いする。それによって、みんなのモチベーションと誇りを上げていく。カカオからチョコレートを作る私たちは、そこからさらにクオリティとしての上の部分を目指していくという循環なんです。」

生産者の立場から見れば、良いカカオができれば、その働きに対してしっかりと還元されるのは、ごく当然のこと。そして、良いカカオからは、より美味しいチョコレートを作ることができる。そこで生まれる消費者の喜びが生産者に伝われば、新たなモチベーションとなっていく。マーケット側からの一方的なサポートではなく、循環の中で高めあっていくというのが小方さんの考えだ。

次の世代へ繋がるカカオ

今回話を聞いていく中で、カカオをまるで我が子のように語る小方さんが印象的だった。カカオはその時々の天候によって大きく味が変わるというが、その個性をいかに理解して生かせるかということが、チョコレートの出来に繋がる。味を安定させるには、異なる時期・天候で育ったカカオを上手くブレンドすることも重要だ。

「納得のいかないチョコレートになった時の私の落胆といったらもう。機嫌が悪くなるんです。自分のところのチョコレートに100点をつけたことはないですから。いって70点です。まだいけるよねこのチョコレートと思うので。」

そう熱く語る小方さんは、さながら芸能界の卵のマネージャーのよう。大切に育てたカカオだからこそ、最大限にそのポテンシャルを引き出してやりたいのだろう。

生産拠点であるコロンビアの工場では、これまでに作られたチョコレートが製造番号ごとに保管されているといい、小方さんは、それぞれがいつ、どんな天候で育ったカカオからできたものかを全て記憶しているという。

そんな並々ならぬ情熱をカカオに注ぐ小方さんが、カカオ生産を持続可能なものとしていくために最も大切にしているのは、何より出来上がった商品が美味しいか美味しくないかということ。

「そもそも私たちはものづくりの人間ですから、一番大事なのはそこにある商品なんですよね。エシカルとかサステナブルとかを全面に出したことはほとんどないです。純粋に味で皆さんに判断していただく。ただ、それだけの味が出てくるというのは、それだけの仕事をしているということ。一度来ていただいても、次がなければ循環には繋がらないですし、お客様が美味しかったよと言っていただくことが、また次の機会に繋がります。」

CACAO HUNTERSには『あなたの興味が、私たちの宝』というマニフェストがある。

生産者はカカオが辿り着く先へ、消費者はチョコレートのバックグラウンドへ、それぞれ好奇心を持ち続けることが、喜びや幸せを生み、循環を促し、そして次の世代へと繋がっていく。

幼い頃にチョコレートに出会い、チョコレートメーカーにまで勤めた小方さんだが、カカオという素材に密着しているからこそ、チョコレートを作るのは今が一番楽しいという。

「当時チョコレートメーカーに勤めていたときは仕事で、今は人生です。

だからチョコレートを作ることをあんまり仕事だと思っていないんです。これが自分のできることで、やるべきこと。私たちが経験してきたものをシェアしていくことが自分の人生そのものなので、生きている感じがします。」

チョコレートには負のイメージが付いてまわることも少なくない。過酷な労働現場、貧困、児童労働など、私たち消費者が知るべき課題も多くあるだろう。

どう向き合うかは人それぞれだが、美味しいものを美味しく食べるという、私たちの等身大の消費が生産者の喜びに繋がっているのだとすれば、それに勝ることはない。

そして、CACAO HUNTERSのチョコレート商品はまさにそんな存在だ。

東京駅改札内にあるグランスタに2020年にオープンしたCACAO HUNTERS Plusでは最高のチョコレートをさらにスイーツに生まれ変わらせた商品も多く取り扱っている。

社会的な課題に対する正義感もよいが、純粋に”良い”ものが、結果的に明るい未来に繋がっていてくれたら嬉しい、そう思ってしまうのは怠慢だろうか。小方さんの話を伺いながらそんなことを考えていた。

CACAO HUNTERS JAPAN 公式HP

CACAO HUNTERS JAPAN
カカオハンター® 小方 真弓さん プロフィール

1997年に製菓原料チョコレートメーカーに入社、以来6年間商品開発や企画開発に従事。在勤中にカカオの世界を知らずにチョコレートを開発する自身に疑問を感じ、一念発起して単身でカカオ生産国を旅することを始める。

2003年にチョコレートの技術コンサルタントとして独立し、その報酬を全てカカオ生産国で学ぶことに費やす。NGOやアジア開発銀行のチョコレート復興プロジェクトに従事しながら、現在まで15カ国のカカオ生産国を旅する。

2009年にコロンビアを訪れた際にこの国のカカオのポテンシャルに魅了され、2010年Cacao de Colombia S.A.S. に自己資金を投資して経営参画、以来活動拠点をコロンビアに移し、研究開発ディレクターとして現地のカカオ発掘、カカオ豆品質向上、生産指導、生産農家の発展に勤めている。

2013年12月同社にてチョコレート工房設立、2016年9月新工場設立、コロンビア初のInternational Chocolate Awards 金賞、特別賞受賞チョコレートの開発・製造に携わる。カカオ・チョコレートの国際コンクール審査員の他、カカオの世界を多くの人に知ってもらうため、各国でセミナーやコンフェランスも行う。

(取材・文 三山星)

健やかな生き方を、米と自然と、ともに。

企画展「はじまりの白」(2021.8.1~10.24) に出店してくださる皆様に、
なぜその分野で生きることを選んだのかを聞くシリーズ。

第4回は、自然循環型の農法で安全と美味しさを追求した農産物を生産する、株式会社山燕庵の代表取締役 杉原晋一さん。石川県能登半島で育てた米や、その米を使用した玄米甘酒『玄米がユメヲミタ』、米ぬかから作られたカイロ『ぬくぬくのぬか』などの加工商品を手掛けている。山燕庵は、社員が杉原さんと父の2名という小規模ながら、米の加工品界隈では確かな存在感を放つ、2008年創業の企業だ。

杉原さんは、IT業界から脱サラ、農家へと転身したという経歴を持つ。
ハードな仕事を日々こなす中で、自然を感じられる働き方に憧れる人も少なくないかもしれない。
しかし、それを実際に行動に移せるのはごく僅かな人たちだ。

杉原さんが大きな選択をするに至るまでには、どんな経緯があったのか。
そして、その選択の先で、どのような挑戦をしているのか。

幼少期から現在まで、杉原さんという人が辿ってきた道のりを紐解いていきたい。

山燕庵の杉原晋一さん

価値観を育んだ原風景

杉原さんは神奈川県横浜市鶴見に生まれ、同県川崎市の多摩区で育った。

当時この町はニュータウンで、開発されていない裏山や、畑といった自然を感じられる風景が残っていたという。実家での暮らしは、家庭菜園で野菜をつくったり、近所の裏山で犬を散歩したりと、日常の中に自然を感じることが当たり前だったそうだ。

「虫や鳥とか見ながら毎日過ごすことが楽しくて、多分それが、僕の価値観の原点にあるんだと思います。」

あるいは、杉原さんの祖父が米屋を営んでいたことも、杉原さんの原体験を語る上で欠かせない要素だ。幼少期は米俵の上を飛び跳ねたり、高校生の頃には米を配達するアルバイトをしていたこともあるとか。

米屋の祖父がいて、自然を感じながら育ち、今は父と共に自分も米に携わる仕事をしている。と、言葉にすればあまりに真っ直ぐな道のりだ。実際、杉原さん自身も、今振り返れば導かれてきたような感覚があると話してくれた。

しかし、農業の世界へ辿り着くまでには、農業とは無関係の分野に興味を持ったこともあれば、就職や仕事に悩んだこともある。

ここからは、学生時代から会社員として働いていた時代に、さらに遡ってみよう。

IT革命の時代、最先端のビジネスを渡り歩いた

時は杉原さんが高校生の頃。その頃から、杉原さんの趣味は映像の撮影や編集することだ。

お年玉でビデオカメラを買い、部室での様子を撮影しては父のパソコンで動画を編集していた。日常を切り取った映像を作ることが得意だった。

その後、大学を卒業したのはIT革命が叫ばれた2000年代。大学では国際関係学を専攻したが、就職の方では趣味を生かす形で、当時最先端のエンタテイメント・ビジネスを仕掛ける会社に入社した。現在のYoutubeやAbemaTVの先駆けとも言える、複数のチャンネルで24時間コンテンツを配信し、広告枠を販売する会社だ。

入社するとすぐに、撮影や映像編集、動画配信 、動画関連のアクセス解析など、スキルを活かせる仕事を任された。だが、ほどなくして、ITの力をより効率に利用できるスキルを身につけたいと、マーケティングリサーチの会社に転職。

そこで待ち受けていたのは、大量に集められたデータを集計し、常に数字と向き合う仕事だった。

当時まだまだ新しい形だったマーケティングビジネスは、学べることも多い一方、厳しい世界でもあった。あまりのハードワークに、仕事を続けていくにつれ、心身ともに衰弱していく自身を感じていたそうだ。

杉原さんは、当時のことをこう振り返る。

「物事をロジカルに考えるっていうことは、そこで学べた気がします。ただ、ベンチャー企業ということもあって、人手が足りないので、労働時間的にも厳しかったんですよ。今週タクシー何回乗ったっけ?みたいな日が続いて、蕁麻疹も出てきちゃうし、考える視野も狭くなって、食生活もおかしくなっていきました。」

そんな時、杉原さんの父が定年退職し、福島で米作りを始めることに。

仕事の気分転換も兼ねて手伝いを始めると、自然と触れ合う仕事に大きな魅力を感じたそうだ。

「農業とか自然に触れ合う仕事ってめっちゃいいじゃんって。何が良いって、本質的な価値観そのものを仕事にできること。

データをこねくり回した複雑怪奇でよくわからないものとは全く逆にある、生命そのものを作ることにすごく魅力を感じました。実際、そっちに集中すると体調が良くなるんですよね。心も元気になっていきました。」

この頃、杉原さんは休養のために一時仕事を離れて過ごしていた。自分の方向性を定めるために、何冊ものノートに自分自身への問いを綴り、整理しながら、過ごす日々。そんな中で、杉原さんの望みは次第にはっきりとした輪郭を描くようになっていった。それは、シンプルに「幸せだ」と思える環境に身を置くこと。それを実現できるのは、父と一緒に米作りをして生きていくことだった。

自分が本当にやりたいことは一体何なのか?という問いに、真剣に向き合うべき時が訪れていた。会社員としてのキャリアを積んで約10年。杉原さんは会社を退職し、農業の道に足を踏み入れた。2011年のことである。

山燕庵の仕事は、おおらかで、ロジカル。

最先端のビジネスを経験した後に飛び込んだ、農業の世界。杉原さんは自然の循環の大切さを伝えていくことを自らの使命とし、そこでの農業のあり方を「深呼吸農法」と名付けた。それは、育て方というよりは、深呼吸をしながら農業をしていますよ、というメッセージのようなもの。山燕庵をのキャッチフレーズとしても使われる言葉だ。

「僕の体験を言葉にしたような感じですね。僕は自然の営みに救われたし、新たな仕事もできたし、いろんな新しい人と出会えた。

豊かな生き方って、やっぱりこの自然の営みをどれだけ感じられるか、人間のアンテナをどれだけかなりオフにできるのか、ということに掛かっているんじゃないかなと。(深呼吸農法は)それをすごく崩して表現した言い方ですかね。」

深呼吸、という言葉には、自然に触れて心が解放されるような感覚を想起させるおおらかさがある。都会で身を削るようにして働いていた杉原さんが手がける商品にこそ相応しい表現だ。

商品のラインナップやデザイン、商品名にも、「深呼吸農法」を思わせる柔らかさ、おおらかさが表れている

そんな杉原さんだが、一方で、前職でマーケティングリサーチに関わってきただけに商品開発や販路拡大に関しては非常にロジカルだ。

山燕庵が掲げる目標は、「自然の循環の大切さを多くの人に気づいてもらう」こと。
それを追求していく上では、商品自体を多くの人に知ってもらうことは不可欠だ。

そのために、ターゲットとなる消費者といかに接点を作るか、あるいは、業界の勢力図を冷静に見極めた上で、市場にもたらすインパクトをいかに大きくできるか。杉原さんの穏やかな口調とは裏腹に、語られる話の内容はなかなかに緊張感のあるものだ。

山燕庵の一番のヒット商品といえば、現在は玄米甘酒『玄米がユメヲミタ』だが、杉原さんが今後さらに成長させたいのは米ぬかカイロ『ぬくぬくのぬか』だという。

「甘酒は大手企業がどんと市場を握っているので、今の位置をキープしつつ、ちょっとずついいお店を伸ばしていきたいですね。

一方で米ぬかのカイロはまだまだ認知度が低いのでチャンスだと思っています。温かくて、身体にも良くて、デザインの仕方も無限大の、めちゃめちゃいい商品。だからこそ、企画次第でいくらでも発展させられると思っています。」

米ぬかカイロの次なる一手は、海外進出だと話す杉原さん。実は、世界には種子や穀物を内容物とするカイロが様々存在するのだそうだ。それはつまり、繰り返し使えるカイロはすでに世界的にも馴染みがあるということ。その市場に、日本を代表して挑む。鍵になるのは、米ぬカイロに日本らしい付加価値をつけていくことだ。

「日本の古い着物の柄のいけてる部分を切り取ってカバーにしたら、すごくユニークな商品になるんじゃないかなって思っています。着物をカバーにしたら、それが日本のどんなエリアで、いつ頃に使われていたかっていう、タグを付ける。そうすれば、限定物としての価値をかなり高められる気がするんですよね。」

新商品の企画をしつつも、次々に増やすのではなく、今ある商品たちをきちんと育てていくこと。この発想は前職で育んだ感覚でもあり、同時に、一つ一つの商品に愛着を持って消費者へ届けたいという心意気でもあるのだろう。

おおらかに、一方ではロジカルに。それが山燕庵の魅力であり、強みでもある。

いつ、どこにいても、自然は感じられる。

杉原さんが現在拠点とする埼玉県川口市の本社の前には川が流れている。

東京都のほど近く、自然を感じられる街とは言い難い場所にあって、実はこの川には翡翠(カワセミ)などの野鳥が飛んでくるのだとか。意識しなければ気付けないけれど、確かにそこに存在する自然の一片。それを見出すことのできる感性が、杉原さんと今の仕事を繋げたのかもしれない。

山燕庵の米の生産地は石川県だが、仕事の都合上、大自然といえる環境に身を置ける時間は限られている。それでも、普段の生活の中で自然の恵みに心を寄せることは忘れない。

「普段から植物を育てることをしています。なぜそれが良いかっていうと、自然の営みを非常に体験しやすいんです。例えば、旬が分かるようになるので、野菜にしても、スーパーで季節を問わず買うんじゃなくて、旬の物を適正価格で買う。経済的にすごく良いし、自然にとっても良いんじゃないと思っています。」

今の季節は朝顔も育てています、と笑う杉原さん。迷いも偽りもない、自然体の笑顔だった。

杉原さんが自宅で育てている朝顔

青春時代には誰しも様々な夢と憧れを胸に抱く。だが、その根底にはいつも幼少期の原体験が存在している。そこに反発する人もいれば、原点へと立ち返っていく人もいる。あるいは、いつの間にかそんな原体験は忘れ去り、影響を受けていることにすら気付かず歳を重ねていく人もいるかもしれない。

だが、杉原さんにとってのそれは、大人になり、紆余曲折を経ても失われることはなく、確かな存在感を持って杉原さんの中に息づいていた。

現代は、選択肢は多いにもかかわらず、すさまじい速さで時が過ぎていく時代だ。

そんな時代にあって、杉原さんは自ら立ち止まり、人間の短い一生を、人間にとって丁度良いスピードで、一歩ずつ踏みしめながら進んでいく生き方を選んだ。

過去と未来を一本の軸に紡ぎながら、杉原さんの感性や価値観はこれから先も、米と自然とともに更なる輝きを放っていくことだろう。

山燕庵 公式HP オンラインショップ

株式会社山燕庵 代表取締役
杉原晋一(すぎはらしんいち)さん
プロフィール

映像制作会社、大手マーケティングリサーチ会社を経て、父が2005年に立ち上げた山燕庵(さんえんあん)へ合流。商品は日本百貨店、SHIRO、TODAY’S SPECIAL他、全国のセレクトショップで発売中。
山燕庵が生産する最高級品質のお米は赤坂の和食料亭「山ね家。」、日本橋の寿司店「蛇の市本店」、スウェーデンの和食レストランhozeでも提供されている。そのお米を使って開発された玄米甘酒「玄米がユメヲミタ」は自由が丘shiro cafeでのコラボドリンクや、代官山Why Juice?での提供などでも注目を集めている。

(取材・文 三山星)


一枚のTシャツにのせた、歴史と汗と、最高の心意気

企画展「はじまりの白」(2021.8.1~10.24) に出店してくださる皆様に、

なぜその分野で生きることを選んだのかを聞くシリーズ。

第三回は、Tシャツ専門のコミュニティブランド〈EIJI〉を企画する三恵メリヤス株式会社の常務取締役 三木健さん。

100年以上継承されてきた職人の技術を結集し、紡績から縫製までの全てを、かつて日本一の「繊維のまち」として栄えた大阪でおこなうALL MADE IN JAPANのTシャツを手がけている。

三木さんは大正15年に創業した三恵メリヤス株式会社の三代目の現社長の元に生まれ、幼い頃から縫製業を身近に感じながら育った。現在は同社にてEIJIのプロデュースを中心に、職人の技術の継承と、新たな担い手の育成に力を注ぐ。

写真左:三木さん 写真左:副社長の尾崎さん

品質に徹底的にこだわり、何年も使い続けることを前提に置いたEIJIのTシャツ。

大量生産・大量消費が豊かさの象徴であった時代から、良いものを少量持つことに価値を見出す時代へと、昨今は消費の価値観は移りつつある。そんな時代にあって、EIJIのTシャツは時代に即したものであると言えるかもしれない。

しかし、EIJIが企画された当時も今も、その価値観が当たり前と言えるほどに世の中に浸透しているとは言えないだろう。そんな中で、長く着られるTシャツを生み出し、多くの人の元へ届けるために奔走する原動力はどこから来るのだろうか。

肌で感じる、幸せ

EIJIのTシャツは「人生で最高の一枚を。」というコンセプトを掲げ、約2年の開発期間を経て誕生した。ここでの「最高」が指すのはTシャツのデザインのことではなく、機能としての着心地だ。何がプリントされているか、ということが重視されるTシャツ市場の中で、EIJIは純粋に着心地の良さ、ものとしてのクオリティを突き詰めている。

実際に袖を通してみなければなかなか伝わりにくい感覚かもしれないが、EIJIのTシャツはとにかくなめらかで、ふわっと軽く、着れば着るほどに肌に馴染んでいくのが特徴だ。巷で人気のヘビーウェイトのTシャツも、通常はその生地の厚さがためにごわごわした着心地になってしまうものも多いが、EIJIのヘビーウェイトはもっちり柔らかい。筆者が実際に試着させてもらうと、どちらのTシャツも、いつものTシャツとは違う、はっきりと感じられる心地良さがそこにはあった。

三木さん曰く、EIJIはファッションではないのだそうだ。着た時に感じる幸せ、それは例えば、朝目覚めて美味しいお茶を口にした時のような感覚。EIJIというブランドのTシャツは、そんなものの良さを直感的に感じられる境地に辿り着くことを目指しているという。

「最高」であるためには、妥協は許されない。三木さんはEIJIの開発当時、Tシャツに使用する素材の取引先の工場を一社一社訪ね、丁寧に時間をかけて最高の素材、最高の組み合わせを模索していった。それほどまでに「最高」にこだわるのにはどんな背景があったのだろうか。

「最高」でなければならない理由

EIJIの誕生秘話の前に、三木さんが子どもの頃に悩んだと言う話をご紹介したい。

それは、三木さんが小学生だった頃のこと。ある授業で、木こりの仕事がなくなっているということを知った。チェーンソーが開発されたことにより、木こりが長い年月をかけて培ってきた熟練の技術が必要とされなくなったからだ。三木さんはその話を聞いて、どうした木こりが生き残れるのか、子どもながらに本気で悩んだそうだ。実家が町工場ということもあり、他人事とは思えなかったのだろう。

「小学生なりに出した答えが、地球上の最後の木こりになればいいんだ!ということでした。最後の木こりになれば、“最後のきこりが切った木”っていうことで食べていけるし、買ってもらえるって思ったんですよね(笑)」

小学生らしい答えといえばそうかもしれない。しかし、三木さんが身を置く国内の繊維業界は、まさに今、この木こりの話をなぞるような状況にある。平たく言えば、国産の衣類は絶滅しかかっているのである。

かつては高い技術を持った職人を多く抱えていた町工場だったが、大量生産・大量消費の時代において、職人が時間をかけて丁寧に仕事をするのでは需要を賄うことができない。やがて訪れた機械化の波によって、町工場は次々と廃業に追い込まれていった。繊維業界は縮小し、今や最盛期の約4分の1の規模となっている。

昭和40年代 三恵メリヤスの社員一同の記念写真

そんな繊維業界において、EIJIのTシャツはまさに“最後の木こりがきった木”。機械によるものづくりは、たしかに速く、効率的だ。しかし、その効率を実現するために切り捨ててきたものもある。

だからこそ、機械によるものづくりとは別の土俵で勝負をかける。

すなわち、職人の技術がなければ生み出せない、「最高」のものづくりをすること。

それが、国産の衣類が生き残るための、三木さんなりの答えであり、EIJIが誕生した背景だ。

EIJIのTシャツは、糸を紡ぐ紡績から縫製まで、全てを一貫して大阪の町工場で行っている。どこか一つでも欠ければ、EIJIではない。EIJIが単にブランドではなく、そこにコミュニティという名を冠しているのも、その地域全体として、ひいては業界全体として次の世代に繋いでいくという強い意志が込められている。

EIJIの名前は、長い時間をともに歩む意を込めた「aging(エイジング)」と、
創業者で曽祖父の名前「えいじ」に由来する。ロゴマークはメイドイン大阪の「O」、ブランド開始当時が創業90周年だったことにちなんだ「90」を糸のイメージに乗せたデザイン。
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タグの裏にはTシャツの製造に関わった全ての工場の名前が記されている。

大切なものは思い出も引き継いで、ずっと持っていたい

EIJIというブランドには、もう一つ大きな特徴がある。それは、生涯保証がついてくるということだ。Tシャツに生涯保証、というのも衝撃だが、さらに驚くのがその価格設定。襟袖のよれなどは無料で直してもらえる。穴などの大きなダメージも、ポケットをつけて補修するなど、相談次第ではあるが概ね二千円前後で生まれ変わらせることが可能だ。

直すことに対しては利益を求めない、と言い切る三木さん。本物の自信と誇りがあるからこそ、一枚のTシャツが長く誰かに寄り添うことに喜びを感じるのだろう。

「例えば首が伸びてしまったのを直すのが四千円とかだったら、新しく買いたいってなるじゃないですか。もちろんそれがダメではないですけど、例えば彼女からもらったものとか、息子が買ってくれたり、奥さんが買ってくれたりしたものだったら、やっぱり、その時にもらったそれを着たい。そんな気持ちに応えられるサービスと仕組みを僕は作りたいと思ったんです。

それは(値段を)高くしちゃだめだと思って、高いからやらないっていう選択肢がなるべくないように準備したいなって思っています。」

そう語る三木さん自身、人からもらったものや、思い入れのあるものは中々捨てられない性格だという。EIJIの生涯保証のサービスが生まれる原体験とも言えるエピソードを話してくれた。

「イギリスに住んでいたことがあって、その時期に着ていたのが、大学を卒業したときに買ったツイードのジャケットでした。でも、気に入ってずっと着ていたから、ほつれたり、内側が破れちゃったりとかしていて。どうしようか悩んでいうちに、冬が終わったのでクリーニング屋に持っていくと、修理できますって買いてあったんです。

イギリスにはクリーニング屋で修理をする文化があって、相談したら、パッチを張ったり、詰めたりしたら修理できるよってなって。パッチもどんなのがいいか生地を見せてくれるんです。

次に洗濯物を取りに来るときに直しとくよって言われて、4日くらいで直してくれましたね。それで、十数ポンド。当時の値段で大体二千円ちょっとでした。」

イギリスのクリーニング屋で修理してもらったというツイードのジャケット

他にも、祖母からもらったお下がりの財布の留め金が壊れてしまった時には、ブランドの修理センターに持っていき、その時は無料で直してもらえたそうだ。そうした粋なサービスの存在が、三木さんの感性にはっきりとした輪郭をつけていった。

EIJIには、「ひとつのものが大切にされ、永く愛されるためにものづくり」という大切な価値観がある。十数年も前のエピソードだが、やがてEIJIが生まれるための微かな胎動が、すでにそこにあったのかもしれない。

家業が自分の居場所になるまで

子どもの頃のエピソードも然り、三木さんの手によってEIJIが生み出されるのは必然だったように思える。しかし、青年時代の三木さんは家業を継ぐ意識こそあったものの、自ら距離を置いていた部分もあったという。

「繋いでもらったバトンをみんなの期待通りに繋げないんじゃないかっていう恐怖心が子どもの頃からすごくありました。自分の能力の至らなさのせいで、今までやってきた人たちに迷惑をかけるんじゃないかって。」

自分の可能性をためしたい気持ちもあり、大学時代にはベンチャー企業の集まりに参加し、自らも留学ビジネスを起業。卒業後も仲間と共に事業を拡大していった。

留学関連の仕事で世界各地を飛び回っていた(左から、シドニー・オークランド・イギリス

そんなある時、現社長である父親が一時的に入院し、家業をサポートする人材が必要だという知らせが入る。幼い頃からうっすらと見えていたバトンをいよいよ受け取らなければならない。それは、三木さんにとても勇気のいることだった。

ところが、当時の感覚を聞くと、子どもの頃に感じていた恐怖心とは裏腹に、思いのほか「しっくりきた」と三木さんは話す。近づいてくるバトンの重みに背中を押されて勉強してきたこと、自分の可能性をためしたいと挑戦してきたこと。そのどちらもが、知らず知らずのうちに、三木さん自身の方向性を定めていたのだ。

「仕事が自分の中に腑に落ちました。逃げないと言うか、覚悟を決めたと言うか。こそばゆい言い方をすると天命という感じですかね(笑)」

今となっては、この仕事は三木さんという人そのもの。恐怖心や迷いもあったが、小さい頃ころから生きてきた場所にようやく繋がった。

「自分がここまでくるまでにみんなに助けてもらったりとか、可愛がってもらったり、支えてもらったり、ルーツであるってことでもあるんだけど、仕事をやってみて、この仕事を一生やっていていいんだって思えました。」

自分が受け継いだバトンを、今度はどうやって次の世代に繋いでいくか。それが、三木さんの次の仕事だ。

職人とともに、次の世代の「最高」を。

三木さんは現在、若い職人の育成に力を入れると同時に、熟練の職人が持つ技術の価値をしっかりと伝えていく方法を模索している。

同じTシャツを作るにも、一番腕の立つ職人が作ったものと、若い職人が作ったものとでは、積み重ねてきた経験の量に圧倒的な差がある。優劣ではなく、職人の技術へのリスペクトという意味で、それぞれが適切に評価される見せ方をしたいというのが、三木さんの想いだ。

「ものづくりのプロセスを知った上で、これから伸びるであろう若い子のものを買ってあげたいと思う人もいれば、たとえ価格の差があっても一番熟練の方のものが欲しいと言う方もいるでしょう。そういうプロセスを踏まえたものづくりを、興味のある人には見てもらいたいなと思います。そうすることで、それを持つことの喜びや楽しみが広がるような気がするんですよね。」

(スライド)町工場での作業の様子

仕上がったTシャツをただ売り捌くのではなく、その背景を丁寧に伝え、誰かの手元に旅たった後も責任を持つ。EIJIのTシャツは人情と心意気に溢れている。

最後に、三木さんはEIJIの将来をこう夢見る。

「続けていった先に、突然変異が起こるんじゃないかって思ってるんです。
今は若い職人たちがTシャツを作り続けていった結果、今のTシャツの亜種というか、Tシャツだけど何かが違うよね、っていうものが何か生まれるような気がするんです。技術と若い職人の感性で、新しいジャンルが生まれるんじゃないかって。」

受け継ぐことは重要だが、それは単に昔を懐かしんでいるのではない。良いもの、良い技術は残し、その上でさらに良いものを生み出す。ものづくりには、満点も終点もない。

EIJIのTシャツが常に「最高」であり続けるために、三木さんと職人は今この瞬間も汗を流している。

コミュニティブランド「EIJI」公式HP


三恵メリヤス株式会社 常務取締役
三木健 さん プロフィール

大正15年に創業した三恵メリヤス株式会社の三代目の現社長の元に生まれ、幼い頃から縫製業を身近に感じながら育った。現在は同社にてEIJIのプロデュースを中心に、職人の技術の継承と、新たな担い手の育成に力を注いでいる。

(取材・文 三山星)


ユキヒョウが開いた、地球へと繋がる扉

企画展「はじまりの白」(2021.8.1~10.24) に出店してくださる皆様に、

なぜその分野で生きることを選んだのかを聞くシリーズ。

第二回は、ユキヒョウの保全プロジェクトである「まもろうPROJECT ユキヒョウ」を主催するtwinstrustの木下こづえさん(姉・研究者)と、木下さとみさん(妹・広告クリエイター)。

写真右から 、姉のこづえさん、 妹のさとみさん

双子の姉妹である二人は、動物の研究者と広告クリエイターとして働く傍ら、それぞれの得意分野を活かして同プロジェクトを立ち上げた。モンゴルでの活動を皮切りに、インド、キルギスと、ユキヒョウの生息地でその場所に合った保全活動を行なっている。

時間的な制約もある中で、ユキヒョウの保全活動に勤しむようになった経緯を聞くと、そこから動物全般や地球全体の環境問題に対する深い理解と思いを聞くことができた。

ユキヒョウを知ってほしい!

ユキヒョウとの最初の出会いは、こづえさんが大学3年生の頃。
動物の繁殖に関心を持って入った研究室では、大学に隣接する動物園と共同で繁殖の研究をしていたそうだ。そこから学生として研究するようになったのがユキヒョウで、一番初めは受け身な出会いだった、とこづえさんは話す。

そこから数年、姉のこづえさんは博士課程に進み、妹のさとみさんは一足先に社会人に。

日々連絡を取り合う中で、さとみさんは、こづえさんの”ぼやき”を聞く。

「動物園でユキヒョウの研究をしていたら、通りすがりのお客さんがユキヒョウをみて、「チーターだ!」とか、違う動物の名前を言って去っていく。なんでユキヒョウって知られていないんだろうってぼやいていました(笑)」(さとみさん)

CMプランナーとして働いていたさとみさんが何気なく会社の上司にユキヒョウの話をすると、「ユキヒョウを知ってもらえる歌を書いてみたらどうか」と言われたそう。姉妹とユキヒョウの距離は、そこでぐっと近づくこととなる。

さとみさんがユキヒョウの特徴を書いた歌詞を書くと、提案してくれた上司の繋がりから、とんとん拍子にメロディーがつき、歌ってくれる人が現れた。

せっかく形になった歌をどう活かしていくかと考える中で、始まったのが、「まもろうPROJECT ユキヒョウ」。ユキヒョウとの出会いから5年後のことだった。

人づてに、野生のユキヒョウへとたどり着く

プロジェクトが始まったとはいえ、この頃は研究者であるこづえさんも動物園の動物を主な研究対象としており、野生のユキヒョウと繋がるつてはなかったそうだ。動物園でのユキヒョウの研究を野生にも活かしたいという思いがありつつも、踏み切れずにいたという。

「北海道の旭山動物園の園長がボルネオのオランウータンと動物園のオランウータンを繋ぐ活動をされていて。どうやったら野生と動物園との関係性が作れるのかを聞きに「えいや」の気持ちで北海道に行きました。

そしたら、その時たまたま環境省の方と出会い、その方の知り合いがモンゴルで野生のユキヒョウを調査していたよ、ということで、そこから保全活動をされているモンゴル人の方と知り合い、人から人へとどんどん繋がっていったんです。それで、クラウドファンディングを立ち上げました。」(さとみさん)

ユキヒョウへの思いが募った先のプロジェクト、というよりは、偶然が重なって形作られてきたこれまでの経緯を、お二人は楽しそうに話してくれた。

しかし、思いがけない進み方をするからこその苦労もある。初めてのクラウドファンディングでは、集まった資金で赤外線カメラを購入し、生息域に設置・調査を行なったそうだ。その当時、妹のさとみさんは普段オフィスに勤めていることもあり、フィールドワークの経験は皆無。モンゴルではほぼ泣きながら山を登ったというから、その行動力には驚きだ。

赤外線カメラを設置する様子

ユキヒョウが好きな場所が、なんとなく分かった

プロジェクトを走らせながら様々なことを決めていったというが、現地に行ったからには結果を残さなければならない。フィールドワークでは、ユキヒョウの排泄物などの痕跡を見つけることや、生息域での行動を予測することが重要な鍵となる。言葉にするのは簡単だが、広大な土地でピンポイントで探し当てることは並大抵のことではない。そこで活きてきたのが、こづえさんの動物園での研究だ。

「野生下のユキヒョウ研究者は、ユキヒョウを間近で長時間見る機会がほぼないんですよね。ただ、私自身は毎日動物園の個体を見ていたので、なんとなくユキヒョウの行動が分かるようになっていたんです。今も、レンジャーに「あの岩、ユキヒョウが好きだと思うよ」と言えるようになっています。」(こづえさん)

中でも印象的だと言うのが、こづえさんの感覚とレンジャーの感覚が合致しなかった時のこと。

「ここにユキヒョウが来そうだから(赤外線カメラを)つけたい、と言った場所があったんですけど、レンジャーにここにはこないよって言われて。そう言われて仕掛ける勇気はやっぱりなくて。でも、下山しながらも、なんかやっぱり来るんじゃないかと思って、もう一度「登って仕掛けたい」と言ったんです。その時の勇気はすごくいりましたね。」(こづえさん)

結局その場所ではこづえさんの予想通り、ユキヒョウの撮影に成功した。

山肌をじっと見ながら、獲物を探しているユキヒョウ

「山を見ていて、自分がユキヒョウだったら、この場所から草食動物たちが来るのをぼーっと見ているんじゃないかなって思ったんですよね。そしたらまさにそんな感じてぼーっと見ていました。くつろいでいたんですよ。」(こづえさん)

動物園での研究成果は、きちんと伝えていく

こづえさんの動物園での研究経験が、野生のユキヒョウの調査に活かされていることは明らかだ。
しかし、動物園はその存在に賛否が生まれやすい施設。動物たちがかわいそうだという意見を一概に否定することはできないが、こづえさんら研究者も、動物園の運営側も、動物たちや地球環境へ還元する取り組みを行なっている。

動物園の存在や、動物園に対する世間の捉え方について、お二人の考えを伺うと、口を揃えたのが「伝え方の工夫」だった。

動物園(水族館も含む)は飼育技術や繁殖技術を作る場になっており、その技術は野生の種が絶滅の危機に晒された時に真価を発揮する。野生動物を保護したとしても、そこで飼育や繁殖をすることができなければ、絶滅は加速してしまうのである。

動物園は博物館施設として、その役割や、研究成果というものをしっかりと伝えていく必要がある。広告クリエイターとして動物園のメッセージ発信に関わることもあるというさとみさんは、こう語った。

「お客さんが動物園にエンターテイメントを求めるなかで、いかにして学びを持ち帰ってもらうか、動物園の職員の皆さんも色々と工夫されています。動物が獣舎のなかで生き生きとくらしてこそ、伝えたいことが伝わるものですので、言葉だけでなく心でも感じ取ってもらうにはどうしたらいいのか難しさを感じることもありますね。」(さとみさん)

そうはいっても、動物園が必要かどうかというという問いに対しては、どこまで考えても、正解はない。
動物園の存在意義は人間的な価値観でしか計れないのがもどかしいところだ。

絶滅の危機にある動物たち 私たちはどう関わる?

ところで、絶滅の危機に瀕している動物はユキヒョウに限らない。これまで話を伺って、お二人にはユキヒョウと関わる偶然のきっかけがあったからこそ、今の活動に繋がっているわけだが、そんなきっかけがない人は、どの動物に対して、どれだけの支援をしたら良いのだろうか。

:「自分に身近に思えるところからだと思います。そうなると、オランウータンとパーム油は、身近に関わる問題として捉えやすいかもしれないですね。」
※世界中で最も消費される植物油であるパーム油を生むアブヤシの植林のため、オランウータンの生息域が奪われている。

:「私もやっぱり自分の生活に関わるところで寄付したりしたくなるので、オランウータンとか食糧関係とか。
そういう意味では、ユキヒョウが日本人の生活と直接繋がっているかといわれると、オランウータンほどの直接さはないので、寄付をお願いする立場になると、「生活との繋がり」を伝えるのは難しいなと思う時があります。」

:「すごく間接的には関わってはいるんですけどね。」


あらゆる社会課題に対して、生活に密接に関わる部分は自分ごととして捉えやすい。だからこそ、身近なところから小さなアクションを起こすことは決して難しいことではないだろう。しかし、注目されにくい無数の事柄が積み重なって、私たちの生活は支えられていることを忘れてはいけない。

ユキヒョウに話は戻るが、ユキヒョウが私たちの生活に間接的に関わっていると話すこづえさんにもう少し詳しく話を聞いてみた。

「ユキヒョウは高山に生息していて、アジアの様々な国をまたいで生息しているんです。
パキスタン、インドなど紛争しているところにぐるっと生息しているんですよね。すごいところでは、ロシア・カザフスタン・モンゴル・中国が交わるところもあります。ユキヒョウはかっこいいのでどの国も象徴種にしたいんです。そう思うと、みんなで守ることで平和を作れる動物なんですよね。ある意味親善大使と言えます。」(こづえさん)

ユキヒョウが生息する国々では、ユキヒョウは生活の一部として馴染んでいる

もっと具体的な話では、ユキヒョウが生息する地域で飼われている羊の毛は、しばしばカシミアのセーターの原料として使われることもあるという。ユキヒョウが平和の象徴だとすれば、そこのバランスが崩れることによって、私たちが意識せず手にしている多くのものが消えて無くなってしまうかもしれない。壮大な話に感じられるかもしれないが、どんなものも元を辿っていけば地球全体に繋がっていくのである。

ユキヒョウから、さらにその先へ

ユキヒョウの保全の話を伺っているつもりが、繋がっていった先は地球全体の問題。お二人にとってユキヒョウの保全はライフワークであると同時に、より広い世界へと関心を開いていく扉でもあったようだ。

普段生活する上では、衣服の由来を見て選んだり、マイボトルを持ち歩いたり。ユキヒョウを調査する中で出会った食文化がきっかけで、食べ物の需要と供給、命のサイクルに悩んだり。

しかし、実体験を伴うからこそ自分ごととして捉えられるお二人の意識と、周囲の人の意識とでは、その間に溝が生まれている感覚を味わうこともあるそうだ。

「会社の会議室のオフィスビルの中で話していると、(SDGsなどの議論に対して)机上の空論というか、その言葉に血が通っていないというか、生命入っていないなって思うこともあったり、逆に自分が一般の感覚とかけ離れてしまったのではないかと心配になることもあります。

かといって全員野生環境に身を置けるわけではないので、どうやったら普段の暮らしの中でつながりを感じられるのか、心を動かすことができるのかなって日々考えています。」(さとみさん)

世界中に散在する多くの社会課題に対して、その全てに実感を伴うことはできないが、身近なところから想像していくことはできる。SDGsやサステナブルといった言葉が先行することも多いが、その言葉をなぞるだけでは、本来地球全体として考えるべき小さな部分を見落としかねない。その一例として、ユキヒョウの保全も、どこかで自分の生活に繋がっているかもしれないということを想像する契機となるのではないだろうか。

最後に、お二人にこれからの目標を伺った。

:「色んな動物を見ていると、それぞれ何かのスペシャリストなんです。色んな生き物がいて、色んな人間がいる。自然と共生するということは、単一ではなくて、色々なものが一緒にいることなので、その多様性をたやさないこと。色んな多様性があっていいんだよ、みんな何かのプロフェッショナルなんだよ、っていうことが伝えることができたらいいなって思います。」

:「ユキヒョウって招き猫で、いろんな人とのご縁やつながりを運んでくるんですよね。私にとっては全然違う世界の人たちなので、ユキヒョウにはそんな風に繋がっていく面白さがあるんだなって思います。もしパンダとかキリンとか、メジャー動物だったらそこまで繋がっていなかったと思うんですよね。ある意味マイナーだからこそ、深く濃く繋がっていく面白さがあって。明らかな目標というよりは、走りながら色んな人と繋がって広がっていくといいなって思います。」

:「やめないことですかね(笑)研究で言われたことなんですけど、『展望は広く、専門は深く』色んなものを見ながらも、マインド的にはぶれずに。その姿勢を続けていくことかなと思います。」

「まもろうPROJECT ユキヒョウ」HP

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<活動実績>
2011年「ユキヒョウのうた」を制作
2013年  双子で「twinstrust」を発足
モンゴルの野生ユキヒョウと動物園をつなぐプロジェクトを実施
2015年  インド(ラダック)の人と野生ユキヒョウの共存に向けたプロジェクトを実施2018年  大牟田市動物園とキルギスの野生ユキヒョウをつなぐプロジェクトを実施
2019年  JICAの一村一品プロジェクトとユキヒョウグッズを開発し動物園にて販売を開始


木下こづえ さん

双子の姉。京都大学野生動物研究センター助教。

絶滅の危機に瀕する動物たちの保全繁殖研究を行っています。主に、ユキヒョウを対象に、動物園や野生下で研究しています。ユキヒョウは中央アジアの12か国に生息しており、世界でもっとも高いところにくらすネコ科動物です。そのため、その姿を直接見た人は少ないです。高山生態系のトップに位置する彼らは生態系維持のために重要な動物であるだけでなく、中央アジアの象徴種でもあります。研究を通して培った人々の輪を生かして、妹と一緒に保全活動に従事しています。


木下さとみ さん

双子の妹。コピーライター/CMプランナーとして広告会社に勤務。

ゾウやキリンのように絵本に登場するメジャー動物だけでなく、ユキヒョウのようなマイナー動物にもスポットライトをあてて魅力を伝えたいと思ったことが始まりです。好きになることで、彼らが置かれている状況を知り、自分の生活とつながっていることを感じてもらえたら嬉しいです。絶滅危惧種の保全活動をもっと楽しく身近なものに変えられるよう、広告の仕事で培った「伝える技術」「行動を促す仕組みづくり」を活かしていきたいと考えています。

(取材・文/三山星)

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音楽から福祉へ。「縁」が奏でる、福祉と未来。

企画展「はじまりの白」(2021.8.1~10.24) に出店してくださる皆様になぜその分野で生きることを選んだのかを聞くシリーズ。

第一回は、刺し子のトートバッグ、クッションカバーなどを制作されている〈就労継続支援施設TERAS company A型事業所〉を運営する、〈合同会社TOMOS companyの山中知博さん。

学生時代は経営学を専攻し、卒業後は塾講師や物流倉庫、音楽関係の営業職、フリーランスでの楽器制作・販売など経て、現在は同社で企画営業を担当されている。

全く異なる分野から福祉の世界へ飛び込んだ理由と、現在の仕事、そして未来の話を伺った。

山中さんが勤める〈合同会社TOMOS company〉(以下TOMOS)は、【福祉の未来に明かりを灯そう】というコンセプトを掲げ、3つの就労継続支援施設の運営を行なっている。

就労継続支援施設とは、身体や心にハンディーキャップのある障がい者と共に仕事をする場所だ。

利用目的や支援の仕方によってA型とB型に分類されるが、その大きな違いは、利用施設との雇用契約の有無。A型の施設では雇用契約を結び、最低賃金以上の給与が支払われる一方で、B型では作業時間と生産した商品の売り上げに応じて工賃が分配される。

B型は社会との接点を作ることや、通所して生活のリズムを整るということが前提にあり、作業内容はA型に比べて制約が少ないという。

どちらが良い、ということではなく、これはあくまで利用者の選択肢。

両方の形態の施設を運営するTOMOSでは、B型からA型へステップアップすることも可能。利用者のモチベーションにもつながっている。

音楽の世界から障がい者福祉へ

就労継続支援施設は数多くある中で、もとは全く別の業界にいた山中さんがTOMOSで働くようになったきっかけは何だったのだろうか。

「代表の飯島(前職はキャンドルアーティスト)とは同じ現場に出入りすることがあって、もともと知り合いだったんです。TOMOS companyができた時に、レクリエーションの一貫で何か楽しませにきて欲しいという話をいただいて関わるようになりました。」

音楽関係の仕事をする傍ら、自らも楽器の制作販売を行っていた山中さん。直感的に楽しめる楽器(パーカッション)の存在が、音楽と障がい者福祉を繋いだのである。

学生時代は人よりも自分のことで精一杯だったと話す山中さんだが、障がい者福祉について少しずつ理解していくなかで、代表の飯島さんから一緒に働かないかと声がかかった。フリーランスとして働いていた時期で、チャンスを感じたという山中さんは、ここから福祉の世界へ飛び込むこととなる。

山中さんの最初の仕事は、同社が運営するB型事業所TOMOS company(以下TOMOS)で作るプロダクトを整理することだった。ものづくりの幅が広すぎると、ブランドとして売り出していくにはインパクトが弱い。
流通に関わってきた経験から、何を作り、誰にアプローチするかというマーケティングを行い、TOMOSでは「刺し子」をメインプロダクトとすることを決めた。

「福祉の事業所ではものづくりをしているところも多いんですが、作って終わっちゃっているところも多いみたいなんです。作ったものを、どうパッケージにするかとか、どう売るか、というところまでいかない。福祉サービスの方が重点的で、事業運営の方が弱いなと感じる部分があります。」

福祉の分野のプロフェッショナルも、事業運営となるとまた別の知識や経験が必要となる。利用者と雇用契約を結ぶA型事業所では、事業運営の売上だけで利用者給与を支払うことが理想とされる。ところが、実際にそれを実現できているのは全体の10%程度だというから、福祉と事業運営を両立させることの難しさがうかがえる。

「刺し子」は多様性の象徴

施設の運営の要として選んだ「刺し子」。山中さん自身が刺し子に関心を持っていたということもあるが、大きな理由は刺し子が持つ、歴史と伝統、そして、自由な可能性だったそうだ。

「刺し子を作るにあたって色々と勉強をしたり、ミュージアムに足を運んだりするなかで、世界中にもたくさん刺し子があることを知りました。生活の中で必要とされたものだからこそ、世界でも行われていた。日本では和柄のイメージが強いですけど、世界の刺し子はもっと自由。こんな風に自由なさしこの表現をしていいんだなということを感じました。

その自由度、ということが施設の中での多様性に対応していけるなと感じたんですよね。」

ものづくりを通して就労継続支援施設としてあり続けるためには、それが利用者の作業として成り立つこと、作業を通して利用者に良い影響が生まれることが大切だ。利用者の“未来に明かりを灯す”という大きな目標に対して、刺し子の持つ様々な要素が上手くマッチした。刺し子は目的ではなく、手段なのだと山中さんは話す。 

TERAS companyの作業場

TERASでのものづくりは、施設の運営者と利用者が双方に助け合いながら進む。一方的に仕事を与えるということはなく、利用者からアイディアが生まれてくることもある。実際に作業場を見学させてもらうと、大きな明るい部屋に作業台がいくつか置いてあるだけで、人と人とを遮るような区画もなく、利用者と運営者が隣り合って作業をしていた。

「年齢・性別・障がいというところを超えて、一人の人生の中の同じ時間を共有しながらものづくりをしていることがすごく楽しいです。助け合いながら作業していくところに、社会の縮図のような、すごく凝縮されているように感じます。」

障がい者も、自分たちと変わらない部分がたくさんある

TERASでは、オリジナルのものづくりの他にも、イベントを企画したり、他の業種とコラボレーションをしたりと、外部の人と障がい者を繋ぐ活動にも力を入れている。障がい者との関わりを増やしていくことによって、社会全体として、障がいのある人と健常者との間にある”壁”を取り払っていくためだ。

2019年の周年イベントの様子

現状では、障がい者が社会に出ていく中で苦労を強いられる部分がまだまだある。施設として、ひいては福祉全体として、障がい者に対してできることは限られている。社会の協力があってこそ、利用者の未来は明るくなるのだと山中さんは話す。

「僕自身もそうだったんですけど、たぶん多いのは、どういう風に接していいかわからないということだと思うんですよね。根本的には何かしてあげたいという思いもあるけど踏み込めないというのが今の日本の現状かなと思います

なので、外部の方をどんどん取り込んで、関わる機会を増やすことによって、関わった人たちの感覚がすごく変わっていく。一緒にお酒飲めるんだ、タバコ吸うんだね、とか。

そういう感覚から、そんな自分たちと変わらないところもいっぱいあるじゃん、ってなってくると、だんだんみんな関わり方が変わってくる。今の段階ではもっと現状を伝えていくということが大切だと思います。」

ごく普通に初めて出会う人間同士も、コミュニケーションを取りながら、相手のことを理解していく中で距離を縮めていく。障がい者と接する中で配慮や理解が必要な部分はあるにしても、コミュニケーションの中で理解していくことは十分に可能だ。大切なのは、まずは受け入れることだと山中さんは話す。福祉とは全く異なる分野から入ってきたからこそ、知識以前の、人に対する接し方の根本的な部分の重要性を強く感じるのだそうだ。

色々な角度から価値を感じてもらえるものづくり

「縁」あって飛び込んだ福祉の世界。話を伺う中で、「障がい」をあくまでもフラットに受け入れていれる姿勢が印象的だった。ネガティブに捉えることはもちろんなく、かといって特別扱いすることもない。あくまでも一つの個性として、その個性を十分に発揮しながら生きられる社会を実現しようとしているように感じた。

ものづくりに関しても、プロフェッショナルとしてのものづくりと、福祉としての側面、どちらが先立つということではなく、あくまでも事実を事実として伝えていくのがTERASのスタンスだ。

最後に、TERAS のこれからについて話を伺った。

「障がい者福祉の分野が時代にまだ追いついていないんじゃないか、そこをなんとかしよう、という気持ちもなくはないんですが、そういう大きなことではなくて、利用者にとって必要な場所であり続けたいという想いが一番です。」

「ブランドとしてはまだ駆け出しなので、もっと魅力的なブランドであり続けたいですし、そのためにはもっとプロダクトも磨き上げていって、色々な角度から価値を感じていただけるようなものづくりをしていきたいと思っています。」

ひと針ひと針縫っていく刺し子は、ミシンで縫ったように真っ直ぐではないかもしれないが、そこには作り手のアイデンティティや多様性が表れる。

TERAS companyで生み出されるものに込められた、作り手たちの“意志”を感じてみていただきたい

TERAS company 公式HP

山中知博さん プロフィール

1981年 栃木県生まれ
2016年 (同)TOMOS company入社
商品企画・営業として、施設の事業運営に携わる。
音楽とモノづくり、そこから生まれる人との繋がりを大切にしている。

(取材・文 三山星)

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